抗がん剤と心臓
心臓にがんはできるでしょうか?
普通はできません。多くは転移性腫瘍が肺を介して心臓に浸潤するパターンです。ただしごくまれに肉腫の発生はあります。
がん(ひらがな)は悪性腫瘍全体のことを指し、癌は上皮由来の本来の癌腫のことを示します。
心臓にがんがないので循環器の先生方は長らくがんとは無縁の世界にいました。ただし、がんそのものの増加、新しい抗癌剤の多用による心血管合併症の増加があり、循環器医としてもがん患者の心血管リスク評価や有害事象の診断・治療が求められるようになりました。
がんと心疾患は死因の1,2を占めるだけではなく、肥満・喫煙・食生活といった共通の危険因子を共有しており両者を合併する患者は今後も増えると予想されます。
2014年頃から全国あちこちで腫瘍循環器科という外来ができはじめました。腫瘍と循環器との関連に注目が集まり2017年には日本腫瘍循環器科学会が設立されました。ガイドライン作成にむけエビデンスを収集し本年ガイドラインが発表されるにいたりました。
がん治療を行うと様々な心血管系の有害事象が起こります。胸部に放射線照射すると心膜が肥厚し収縮性心膜炎を発症したり、アントラサイクリン系の抗がん剤は心毒性があり心機能を低下させる、など以前から知られていました。
がん治療に伴う心血管系有害事象は大きく心機能障害・心不全と血栓症に分けられます。抗がん剤には従来の殺細胞性抗がん剤、分子標的薬、また免疫チェックポイント阻害薬があります。一般的にはこれらをまとめて化学療法と呼びます。
アントラサイクリン系の抗がん剤は殺細胞性の抗がん剤でありいまでも乳癌をはじめ多くのがんに使用されています。容量依存性の心筋障害を引き起こし、多くは不可逆性です。組織的には心筋細胞の脱落・壊死が起こり中止後も長期にわたり心機能障害が起こります。
抗HER2抗体薬に代表される分子標的薬も心機能障害を引き起こします。アントラサイクリン系とは異なり組織学的にも心筋障害所見はなく中止後心機能も見られ長期的な心筋障害は少ないとされています。
ところがこの二つの薬剤はがんに対し併用されることが多く、心機能回復が遷延する症例が多いことも確かです。
抗がん剤投与において心筋障害を早期に診断する方法が望まれていました。従来は心エコーでの収縮力のみで評価ししていたのですが早期の心機能障害の診断には向いていません。近年心エコーの指標として心筋ストレイン法による長軸方向のストレイン解析が早期診断に有用であることが証明されています。ただし早期診断してこの抗がん剤は向いていないと診断しても、中止することが患者さんにとっては不利益になってしまうところがつらいところです。
次に、がん患者は血流の停滞、各種抗がん剤による血管壁の障害、凝固系の亢進など血栓発症の素地となる因子が多くあります。VGEF阻害薬、チロシンキナーゼ阻害薬や免疫チェックポイント阻害薬にも心機能障害に加えて血栓症発症の副作用があります。
血栓症には脳梗塞、心筋梗塞をはじめとする動脈系血栓塞栓症と肺塞栓・深部静脈血栓症のような静脈系血栓塞栓症に分けられます。その他表在静脈血栓症や非細菌性血栓性心内膜炎などもあります。いずれにしてもがん患者に化学療法を行っていると何かと血栓症が多いのです。
動脈系の血栓としての脳梗塞、急性心筋梗塞、急性下肢動脈閉塞は比較的簡単に診断できます。多発性脳梗塞の場合は、心内膜にできた血栓由来や、静脈系にできた血栓由来の奇異性血栓の場合があり診断が困難です。
一方静脈系の血栓症、深部静脈血栓症や肺塞栓症(軽症)は意外と診断に苦慮することが多いのです。
抗がん剤治療中に下腿が腫れてきたらまずは採血して血栓マーカーの上昇、下肢静脈エコーでの血栓の有無で深部静脈血栓症の診断を行います。足の血栓が確認できてもできなくても肺塞栓症を起こしていないかCTや心エコーで精査する必要があります。
癌治療に伴い静脈系に血栓ができた場合は抗凝固療法を継続すべきであるとされています。
従来心臓専門医と腫瘍内科医とは分野が別々なだけではなくいわば対極の立場にありましたが、がんの治療の進歩に従い、患者さんのために何としてでも互いの分野を学ぶ必要性がでてきました。そして腫瘍循環器学という分野ができました。
循環器医として、進化し続ける化学療法の心臓に対する有害事象を早期に察知し、がん患者さんにとってベストな治療が選択できるよう貢献していくつもりです。